部屋とベッドを与えられたが(勉強はしないから当面机はないらしい)ベッドの頭の方がなんだか不満足らしく、こんなのを作ってというが、実際に作るには「寸法も測らないといけないので、そのうち行くよ」と返事すると「できるだけ早く来て!」というので、本朝工具一式車に積み込んで出向いた。
話を聞いて材料購入のため、ざっと寸法を決めた。
実は昨夜聞いていたのだが、ベッドの下にモノを入れるので、脚を高くしたい。そのパーツ(長い脚)を購入したが、取り付けのネジがピッチが合わず(元のがインチネジで長い脚はミリネジ)取り付けられないということで、これが難題だと思っていた。
直径60?の脚を板で囲むようにして、それを脚にすればいくらでも高くできるということに気づくが、その材料と構造を少し考えた。下の図がその答えだ。
これまでの短い脚にすっぽり被せる。
このような脚になったのだ。
最初の依頼は簡単に出来上がる。
奥(窓の左側)にエアコンのホースがあるので、ベッドを置くと頭のところに隙間ができ枕が落ちて困るという問題から、このような棚をつくってほしいというのが、そもそもの注文だった。
ベッドの下に箱を入れたいので長い脚を取り付けてくれというのが、ついでの注文だったが、それがいささか難儀したという次第である。
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例のSCマトリクスについて解説し、その後、実際の車椅子を使って坐り心地などを実感してもらった。
2次会はここ(下)。ハイボールがヌア〜ンと1杯55円だ!
僕らは「10杯飲んでも550円!」大喜びで、話も弾み、何杯飲んだのかな〜? 渋谷の穴場だ。
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コロナが始まってこの種の「シーティング講座」は、お休みしていましたが、やっと復活!
シーティングの基本から始まり、実践場面では主にお年寄りをいかに坐らせるかについて紹介します。
今からでも申し込みできます。
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都会の近く(町田の我が家からは丹沢山まで直線で30kmほど)でありながら、東西40km、南北20〜30kmにもわたって山地が広がっている。地図で見てみると九州だと九重と阿蘇がほぼ入る大きさだ。
丹沢には縦走路がいくつもあり、代表的なコースが丹沢主稜縦走コース。2017年5月に息子と一緒に一泊二日で走破。
詳しくは 2017年05月07日の記事 | 光野有次の気分はバリアフリー (jugem.jp)
丹沢山塊の最高峰の蛭ヶ岳から西に向かって伸びる長大な稜線で、非常に起伏の激しい稜線だ。とてもきつかった。ここを歩ければ日本アルプスの観光ルートは問題ないはずだ。
もう一つが、比較的なだらかな道の続く塔ノ岳−蛭ヶ岳間の稜線(丹沢主脈)を歩く丹沢主脈縦走コース。
丹沢主脈とは丹沢山地の塔ノ岳から丹沢山や丹沢山地最高峰の蛭ヶ岳を経て焼山に至る稜線で、丹沢山地を構成する大きな稜線の一つである。
いずれにしろ、主峰・蛭ヶ岳を中心にした尾根筋で、東西に走るのが丹沢主稜で、南北が丹沢主脈ということらしい。今回の山歩きで、主脈の蛭ヶ岳から焼岳までのコースを残すのみとなった。
写真は仏果山から。 仏果山については:光野有次の気分はバリアフリー (jugem.jp)
次回は一泊付きで丹沢主脈縦走路(全コース)を走破するつもりだ。ちなみに丹沢主稜縦走は勘弁してもらいたい。
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寒いだけあって天気はとてもいい。朝飯をゆっくり楽しんだ後、午前8時に登山開始。
上を見上げても下を見てもこの尾根はかなりの急傾斜だ。
まずは烏尾(からすお)山をめざす。
富士山だ!
雪が増えてくる。
烏尾山の山頂だ。山小屋は閉鎖されていた。
実はこの尾根(下の写真)を登ってきたわけだが、登り口にはこの表示がなかった。下るのは危険という意味だろう。
縦走コースを歩くわけだが、風もあり雪は多く、一部凍っているところもあり、滑りそうだったので簡易アイゼンを着用。
今回の目的の行者ヶ岳の山頂だ。見晴らしはたいしていいわけじゃない。
ここからは鎖場が続く難所だ。アイゼンを履いたまま岩場を降りるのは緊張するが鎖はありがたい。
ベンチはない。雪の上に腰をおろす気はしない。昼飯は1月と同じ場所。倒れた木の上に腰掛けることができた。ここは風が当たらないので快適だった。
そして1月に往復したこの政次郎尾根を下るが、なんと、ここにも新しい同じ標識でやや緊張した。
ここで踏み外すと遭難となるのだろう。
ま、無事下山。時刻は午後3時になろうとしていた。8時から歩き始め途中の休みは昼食も含め1時間ほどなので、6時間ほどだった。その3分の1は雪の上だった。やや緊張したが、天気に恵まれ実に楽しい山行だった。
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今月8日未明から町田にも積雪があったのですが、街はその日のお昼頃には雪はなくなった。9日、散歩道から見える丹沢の山々には雪が残っていた。
10日(日)もその翌日も好天の予報。
身持ちの良い夕刻だ。
日暮れとともに、またビールとワインがすすむ。
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孫3人が久しぶりに集合。
左の小学2年生からの手作りの贈り物です。
素晴らしいアイディアだ。
箱の蓋にも丁寧なイラスト!
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僕は、小学校も中学校も窓からはいつも佐世保港が見えていました。海が見えるのが当たり前の生活でした。
テレビのおかげで、しばらく海を見てなかったことに気付き、朝まだ寒かったが、天気も良かったので山下公園をめざしました。
左先には大型客船の波止場が見える。
下は停泊したままの氷川丸を背景に自撮り。
上は「あ〜おい目をした・・・」お人形で、下は赤い靴履いていた女の子の銅像です。それぞれ歴史を背負った女の子(?)のようです。
来月、ここで(なんだかわからない)祝賀会をやることになったようなので下見。
実に安くて、とても旨い!
今は交番になっているが、道は変わらないようだ。
久ぶりの中華街だが、とても込み合っていた。
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電車に乗り込むとすぐに電話がかかり、満席で翌日も予約が一杯で2日後(つまり昨日)でないと席がないということだった。
「映画館で映画を見るぞ〜!」という気分で盛り上がっていたので、すぐに新百合ケ丘駅で下車し直行。前から興味があった伊藤野枝さんをモデルにした「風よ あらしよ」の上映がちょうど始まるところだった。
瀬戸口晴美著の「美は乱調にあり」を以前読んでいたので、辻潤や大杉栄との関係、そして関東大震災の後に憲兵隊によって虐殺されたことも知ってはいたが、あらためてこの映画で、大正デモクラシーと呼ばれることもある時代だが、男尊女卑の厳しい社会の中で、女性の自立そして昨今のジェンダー問題などを先取りしていることがわかる。福岡出身の女性だ。
余談だが、大杉栄や甥子とともに憲兵隊によって惨殺された野枝さん(享年28歳)には7人の子どもがあり、その一人であるルイさんは僕が諫早でやっていた無限工房にお越しになったこともあった。
詳しくは 伊藤野枝 - Wikipedia
そして昨日の「カムイのうた」である。
断片的には知っていたが、文字を持たなかったアイヌ民族が口承してきたユーカラという長大な叙事詩をローマ字表記し、美しい日本語に翻訳をした知里幸恵さんの一代記である。
わずか19歳の若さでこの世を去ってしまうが、当時のアイヌの生活ぶり、特に厳しい差別の実態もよく伝わる映画で、目頭を押さえずには鑑賞できなかった。北海道の大自然の映像、そしてアイヌ語のうた(ユーカラ)も素晴らしい。
実は、この二人の女性が亡くなるのは、ほぼ同じ時期だった。
知里幸恵さん;1922年(大正11年)
伊藤野枝さん;1923年(大正12年)
ちなみに関東大震災;1923年9月1日というわけで、100年ほど前の話である。
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蜂が飛んでいる!
教会の模型
昨年はビデオでこの礼拝堂を拝見したが、今回は原寸大で再現されている。
乃木坂の新国立美術館から六本木ヒルズへ歩く。
「モーツアルト(というかプレスリーかな) は いいな〜」と聴いていた時に、突然ビートルズだ。
マチィスとキース・ヘリングはそんな感じかな〜。
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裁判もあったようです。詳しくは ういろう (菓子) - Wikipedia
それはさておき、小田原城を模したのでしょうか、ひときわは目立つ店舗です。
中は今でも漢方薬局とお菓子(ういろう)屋が右左に分かれて販売していました。
左奥が漢方の薬局。下は昔の写真です。
この写真は下の有名な金次郎の銅像の向こうにあるこじゃれた新しい食堂のインテリアの一部として展示されていたものです。
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お城の高さ比べですが、小田原城は第7位です。これは意外でした。島原城(長崎県)が3位というのも知りませんでした。驚きです。
再現された天守閣は5階建。一番上は展望台になっています。
北側はいつも登っている丹沢の山々が一望できます。案内の写真と僕の実写を並べて見ました。
上側の写真で大山が白くなっているのは(雪ではなく)多くの方が触り過ぎたようで剥がれて白くなっています。
下の小さな写真ですが、10日(土)の登った大山も白く見えます。丹沢の高い山は白く見えます。
下は別の角度(西側です)からの写真ですが、例の石垣山が間近に見えます。
石垣山城については、昨年掲載していますのでご覧ください。
2023年12月22日の記事 | 光野有次の気分はバリアフリー (jugem.jp)
昨日は反対に小田原城から一夜城と呼ばれる石垣山城を眺めてみました。
1590年、ここでの合戦の勝利で秀吉の天下統一が目前となりました。戦国時代の幕が下ろされ、近世ということになったのだそうです。
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昨日、練習しましたが、あっという間の装着です。
僕は父親の遺言(?)で「山に登るのははいいが、雪山と岩山はダメ!」ということで、アイゼンを使うのは夏に2000〜3000mの雪渓を登ったり渡ったりするときだけ使っていました。これまでのアイゼンはベルトで締め付けるモノで、装着(脱着にも)に時間がかかっていましたが、これは素晴らしい!
戯れ句にもならない駄句です。「安心かしら」は 愛染カツラ (木) - Wikipedia にかけています。
アイゼンがない方は引き返していました。本日は暖かったので午後はだいぶ雪が融け、スニーカーで登る人もいましたが、下りは大変そうでした。
頂上には50?程の雪が残っていました。
いつものように昼飯です。今は山行中はビールは無しです。下山時に必ずと言っていいほど脚がツルからです。
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意外なとこに、こんな方がいました。思わず「弟さん?」と尋ねましたが、「息子さん?」と聞いてもよかったのかな〜。(このブースのスタッフの方で、たぶん血縁関係はないようですが・・・)背格好もほぼ同じ!
この写真ではさほど似てはいないのですが、実はよく似ていましたので「他人の空に」に収蔵することにしました。御両人の許可(?)は頂いています。
下は諫早時代の友人・長谷川武雄さんが「九州クラフトデザイン協会」のブースで昼飯も食べる間もなく頑張っていました。
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会場設営が終了したので記念撮影。たまたま代表の木之瀬さんは不在(トイレ?)。
報告会 こどものシーティング —現状と課題― プログラム
12:30 開場 受付開始
13:00 開会の挨拶(10分) 木之瀬 隆(代表理事)
13:10 こどものシーティング【制度】(20分) 高木憲司(評議員長)
13:30 こどものシーティング【歴史と実際】(20分) 光野有次(監事)
13:50 こどものシーティング【事例】(20分) 野村寿子(理事)
14:10 報告書の説明(40分) 繁成剛(評議員)
14:50 休憩(10分)
15:00 ディスカッション(60分)
16:00 閉会
定刻に木之瀬代表の挨拶からスタート。
制度について高木副委員長が問題点や今後の展望を説明。
次が僕で「歴史と現状」。
野村さんが事例を通して説明。
繁成検討委員長の中間報告。
Zoom参加者を交えてディスカッション。きわめて充実した報告会だったと思うの僕だけじゃなかったようです。
この日は、また新たな記念日となったようです。本日のディスカッションを踏まえ3月末に最終報告書をまとめ公表します。本日公表した中間報告書を必要とする方は、日本車椅子シーティング財団までご連絡ください。なお、本日の動画も有償ですがご覧できると思います。
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テオ・ヤンセン展です。実は本日(1/21)が最終日。まずは動画をご覧ください。僕もこれを見て驚き、実物はどうなっているか確かめたかったのですが、やっと間に合いました。
生き物のように動く巨大アート「テオ・ヤンセン展」 (youtube.com)
比較するのはおこがましいが、彼は僕より1年早く生まれ、僕より1年遅く転向しています。生活してきた場所は異なりますが、同じ時代に同じ空気を吸って生きてきた「同時代人だ」です。
これこそが、まず最初の偉大な発明です。これが「テオ・ヤンセンのリンク機構」で、13本の棒がリンクすることで、まるで生き物の足のような動きを再現できるのです。この13本の長さを当時出始めたばかりのパソコンで見つけ出したという話でした。まさしくホーリーナンバーです。13という数は僕らには縁はないですが・・・。
ミニチュアモデルに風を送って羽を回すと、歩き始めるので子どもだけでなく大人も大喜び。
下は、比較的小さな実物で(実際は風で動くのだが)風がないので、手で軽く押すと歩き出す。
下のが最大サイズのビーストで、風の代わりにコンプレッサーで空気を送り込んで動かしてくれた。
大きな動力は風を受けた帆だが、細かな動くをコントロールしているのが、ペットボトルに入った圧縮空気だ。その動力もこの帆から得られる。自転車の空気入れ(ポンプ)と同じ原理だ。細いウレタンのホースは神経の役割をしている。
「たったこれだけのペットボトルでよく動くな〜」と思ったので、係の方に尋ねたら、実際に外の砂浜で動かすときには、数百本のペットボトルを取り付けるそうだ。
フレームやパーツはすべてこの樹脂パイプでできており、ジョイントには焼き鳥の竹串が使われている。
上は製作するときの治工具。下は彼のアトリエというか工房。
構想するときのデッサン(下絵)だそうだ。
屋外には、ぬあ〜んと友人(田中毅くん)の作品が!
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これまでは地方での講演・講義ばかりで東京(町田も東京なのだ!)は初めてということで、渋谷出身の彼は「凱旋講演」と喜んでいた。
ちなみに、この講座は撮影・録画はOK!ということだった。
2014年『朝日新聞』長崎県諫早支局長。2017年 大分県日田支局長。2021年〜熊本県天草支局長。
僕はこの諫早支局のすぐ近くに住んでいたことがあるが、彼が赴任した時には諫早を離れて久しかった。
諫早時代から田作りを続けているようで、狩猟も趣味でやっている。近藤さんとは面識はないが、ときおりそれを記事にしているので身近に感じていた。
新聞の折り込み広告で、この講座の案内が入っていたので、すぐに申し込んだ。200〜800字の原稿を事前に送れば添削もしてくれるというので送っていた。
昨日は長袖のアロハシャツ(?)にテンガロンハットとサングラスというトレードマークのままの出で立ちで登壇。サービス精神旺盛な方である。
読んでもらうには、サービス精神が必要ということで(まずは頷く)、読者は寝転んでラクラク読めるように筆者は頑張らなきゃいけない、という理屈に大きく頷く(もうここで僕は彼の手のひらに乗ってしまった)。
そこで、この3妖怪である。
●重複ドン ●どっさりもっさり ●分かりにっ壁
事前の投稿者が僕も含めて17人だったそうだが、そのうち4人の文章を例題にして、この3妖怪の説明をしてくれた。
「重複が多いと読みたくなる」というのは、同じ文字が無意味の並ぶとダメと言うのはすぐわかるが、文章がモタモタしていてリズム感がないのも読みたくなくなる。
そして本人が一番気づきにくいのが本人はよくわかっているが、読者には「分かりにくい」という内容だ。この壁が筆者にはいちばん見えにくいのだ。
下をクリックするともっと詳しく上手に説明されています。昨年の受講者の感想です。
近藤康太郎「アロハ記者の文章術」受講感想|久松紀子/校閲ジャーナリスト/翻訳校閲・校閲/英語学習参考書執筆 (note.com)
で、僕が投稿した文章にも丁寧な添削が入っていた。事前に関係者から「公表するかも」という電話を頂いていたが、例題に取り上げられなくてよかったと胸をなでおろした。(ちなみに「この胸をなでおろした」というような常套句は使うなというのも貴重な教えだった。)
これまでたくさんの文章を残してきたので恥ずかしくて読み返すことはないが、これからは文章を書くときに昨日の教えを忘れないようにしたい。
報告会 こどものシーティング― 現状と課題 ―
日 時;2024年2月3日(土)13:00〜16:00
場 所;〒103-0012 東京都中央区日本橋堀留町1−10−1
カクタビル2階 会議室
主 催; 一般財団法人 日本車椅子シーティング財団
参加費;3000円 賛助会員(無料)
申し込み方法;ホームページの案内をご覧ください。
こどものシーティング ―現状と課題― 報告会のご案内 | 一般財団法人日本車椅子シーティング財団 (wheelchair-seating.org)
12:30 開場 受付開始
13:00 開会の挨拶(10分) 木之瀬 隆(代表理事)
13:10 こどものシーティング【制度】(20分) 高木憲司(評議員長)
13:30 こどものシーティング【歴史と実際】(20分) 光野有次(監事)
13:50 こどものシーティング【事例】(20分) 野村寿子(理事)
14:10 報告書の説明(40分) 繁成 剛(評議員)
14:50 休憩(10分)
15:00 ディスカッション(60分)
16:00 閉会
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本日が最終日。
孫の作品だ。小学2年生は最年少だ。
細かいところがいいが、ポスターとしてのインパクトに欠けるかな〜。
実態をよくとらえていると感心した。
そして両国国技館へ。
久しぶりの横綱の土俵入り。
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久しぶりの焚火です。ビールも焼酎もすすみました。
車中泊。朝の気温はマイナスだ。外に置いていたステンレスのカップに外においてたペットボトルのお茶を注ぐとあっという間にシャーベットに。
昼飯はいつものようにカップ麺とコンビニおにぎり。
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一昨年からハガキの年賀状を出さなくなりましたので、ご了承ください。
亡母が云うには「大きくなったら【消防車】になりたいと言っていた」らしい。消防車が好きだったことは覚えている。
中学時代、盟友の(故)竹野広行は「おとなになってもエラクはならないと思う」と云ったのに驚き、おとなになるというイメージがないことに気づいた。
高校の3年生、志望校を決めるということになり、絵を描くことが受験勉強になることがわかり(つまり受験勉強が嫌だったわけだが)工業デザイナーの道をめざした。
美大も1年生のころはデザインの演習は新鮮だったが、2年生は遊ぶことに熱中。危うく落第するところだった。3年生からは、心を入れ替えデザインの学習に没頭。まずは工業デザイナーとして大企業で実績をあげることをめざした。やっとイメージがつかめたわけだ。
卒後2年間、会社でそれなりに頑張った(?)が、その頃に重いハンディをもつ子どもたちとの出会いがあり、ここに僕の仕事があることを発見し、実際にはじめてみるとホントの意味で「仕事の面白さ」を知った。僕は生涯の仕事をつかみ取ったのだ。
仕事は昨年から非常勤になったので生活スタイルは変わり、仕事の予定がないときは、山歩き・街歩きに読書・映画三昧。ときどき旅行の毎日です。
ことしもよろしくお願いたします。 2024/1/2
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バスは満員のまま50分でヤビツ峠まで。車も人もいっぱいだ。自転車で上ってくる人も多い。
小さな霜柱が美しい!
ヤビツ峠から1時間半ほどで大山山頂(標高1252m)だ。
今年は3度目かな?
ここから久しぶりに「見晴台」に降りてみた。
そこから未知の日向薬師寺まで7kmで3時間ほどだった。本日はおよそ10kmを5時間ほどかけて歩いたことになる。
登りはまあまあだが、下りは後から来る人たちに道を譲るしかなかった。
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コロナ禍の前は「ストーブ開き」と称して毎年大勢が集まっていました。今回から残念ながら、薪ストーブがありません。工房内のレイアウトが変わったからです。それでも前のようにたくさんの方が集まってくれました。
竹野社長の乾杯の挨拶で(正式な?)スタート。実はおじ(い)さんたちは既に始まっていたのではあるが…。
恒例の全員の自己紹介が始まったのは 16:04 だ。
下は木藤親子。小学校のころから参加してくれていたが、ずいぶん大きくなったもんだ。
最後に社長の自己紹介。この写真の記録だと 16:44。ちょうど40分だ。
しばし談笑の後、これまた恒例の集合写真。この前に帰った方がいましたが…。
最後は「ぱあ〜」。
この後も続いた〜。
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風は冷たいが快晴だ。そこからあちこち見物しながら石垣山城址をめざす。
石丁場(いしちょうば)とは石を割ったり、加工したりした場所のことです。
この橋の下を頭がぶつかりそうになりながら、くぐると石丁場だ。
双方が目視できる位置関係だ。
小田原城を攻め落とす前に関係者(家康も)をここに呼び寄せた。秀吉は側室の淀殿も呼び寄せ、千利休は侘茶でもてなす。ついでながら、正妻(寧々=北政所)には手紙を出している。天下統一を目前にした高揚感があったのだろう。
ここで秀吉の天下統一が見えてきた。
同年、最後に伊達政宗の奥州を平定し日本全国を統一。54歳。
ミカン畑が続く。
小田原漁港に到着。およそ2時間半(6?ほど)の軽いハイキングというより散歩。
港の食堂で気持ちよく一杯!
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こうやって撮るとインドアとアウトドアの写真を張り合わせたように見えませんか?
室内なのですが、3年過ぎても植物も渓流の淡水魚もうまく育っているとのことでした。そのための仕掛けも素晴らしい! 店員さんが丁寧に説明してくれました。
スウェーデンを中心に北アメリカの選りすぐりのアウトドア用品が並んでいます。
実は最初に目に入ったのが、このビールでした。
店内でビールが飲めます。
住所は神宮前。
青山の街並みとつながっています。久しぶりに町田ではない街に出向きました。建物も女性たちも実にカッコイイ!
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昨日は地元の有名店「やぶそば」だ。うまくてボリュームたっぷり。
美空ひばりの横の子は、今では毒蝮三太夫さんと。
2016年に始めたチーズタルトの店を成功させ、昨年はカステーラの店を。製造販売店だ。
カステーラ屋で見たこの盆栽はヌア〜ンと「ムラサキシキブ」なのだ。蕎麦屋の店主すなわちこのカステーラやの親爺さんの作だという。
暇だったので、水上温泉から新幹線の上毛高原駅まで11kmほどを歩くことにした。
谷川岳がよく見える。登ったのは何年前になるのかな。
水路の水が登っているように見えた。
道路を渡って撮影。道路の勾配と崖下の水路の勾配が微妙なのが、わかりますか?
あちこち寄りながら3時間ほどかけて上毛高原駅に到着。
本日の遅昼でした。
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雲一つない快晴だ。風もない。11月だと「小春日和」ということになるのだが、11月の晴れ間は夏日だったので、12月に小春日和でいいのかな?
ネットで調べてみると
太陽の動きに基づいた暦である二十四節気の「立冬」と「小雪」の間の期間。毎年11月22日頃〜12月6日頃にあたるが、日付が固定されているわけではないらしい。
ま、少し外れたが、小春日でよいのでしょう! 遅い昼食です。
♪肴はあぶったイカでいい〜。ついでにホルモンだ!
そして赤ワイン。
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第4回目のご近所讃会を開催しました。
このご近所讃会のきっかけは、お隣の徳永さんがいつも被災地にボランティアに出かけられていることを聞き、この地区が災害にあった時に避難所で「はじめまして」というのは良くないねと言うことから、始まりました。
コロナのため3年のブランクはありましたが、今回「復活第2弾」というわけです。
上の案内チラシを10月下旬に近所の家に30枚ほどポスティング。
11時ころからお隣の徳永さんと準備を始めるが、日差しも強く暑かったので、ビールを飲みながらの準備。
ご近所や遠方からも三々五々、集まってくれました。
いつも参加してくれるサッカー少年(小学6年)。今日はマラソン大会だったそうで、遅れての参加。
参加者は名前とキャッチコピーなどを書いてもらうことになっている。
12月は日暮れが早い。だんだん寒くなってくる。
生の火は子どもたちも大喜び。
災害があると全国各地に支援に出かけるスーパーボランティアの徳永さん。焚火名人でもある。
焚火を見ながら飲む焼酎は格別だ。結局8時過ぎまで飲んでいた。気が付くと9時間飲み続けたというわけだ。
日暮れてくるとメンバーチェンジもあり、30名近くの参加者になった。
次回は3月中旬頃にまたやろうということで、「桜を見る会を予定!」ということになりました。
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一昨年、試行授業でお世話になった「暮らしの支援とエンジニアの協働」が昨年、正規科目として開講しました。
ということで昨日、2年ぶりに喜んで講義に出向きました。
実物も持参。テーブルを回して試してもらいました。
上が、昨日のスライドですが、下をクリックしていただければ、テレビの画面を見ることができます。30秒ほどですが当事者が実際にこれを使って食事している場面が確認できます。
握力ない人でも使えるナイフ・フォーク 製品化へ資金募る|NHK 石川県のニュース
テレビでは来年の5月と言っていますが、今年の5月のことです。クラファンが成立し、その後、見事に製品化されました。
バリアフリーデザインとユニバーサルデザインの例をいくつか示し説明しました。
そして僕らの仕事も紹介。
下は35年前の記事だ。39歳というわけだ。
スライドでの話が終わったあとは、勝木先生のリードでグループ討議。そして感想や質問タイム。
この講義は今年入学した日本工業大学の全学科の学生が「暮らしの支援とエンジニアの協働」を選択できるようになっていて、100名近くが受講してくれました。
大学1年生ですが、見方を変えれば高校4年生(孫世代?)です。そのビビットな意見や感想、そして投げかけられた質問に僕も全力返球(?)で、とてもエキサイティングで楽しい時間でした。
「問題を問題として意識できれば、それば発明につながるよ!」という話(僕は「寝たきり」というのが問題と感じ、実は「寝かせっきり」じゃないかということから取り組んだ例など)で終わりましたが、うまく伝わったかな〜?
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展示品はテレビ番組など一部を除いて、すべて撮影可能だ。
上京前の油絵。
ゴッホのこの向日葵の絵に感動したのが、長髪で右端の天然パーマの青年だ。
上の写真の左下を拡大(下)
上の絵の説明は下にあるが、九州人は稽古はしなかった(と思う)。薩長土肥の明治政府だったからだろう。
そうはいっても、言葉は通じにくいので、僕の友人は予備校の入校手続きをするのに東京弁に慣れた奴を連れて行き通訳をさせていた。これはホントの話だ!
友人の松木は上の4人の写真に写っている。
柳宗悦先生の横で濱田さんや河井さんをさておき、ものおじもせず偉そうにしているのは、実に見事だ!
ちなみに前列左端が山下清を世に出した式場博士だ。
ところで上の写真の説明に「一人おいて」とあるが、「一人おかれた方やその子孫の方たちの気分はいかがなものだろうか」という話を盟友の(故)竹野広行がしていたことを思い出してしまった。
下の作品が絵葉書になっていたので額縁とともに購入。特に意味はないがトイレに飾っている。
しゃがむと目の前にあるので緊張を緩めつつも必要な力が出るようだ。
「勇」と「棟」とあるように、吉井勇の歌を版画にしたものだ。
夕方になると狩場大明神(高野山の守り神=狩人)が現れて、弘法大師(空海)を守るわけだが、その狩人(=巨人)は白と黒の2頭の犬を引き連れているので、その犬の声が聞こえてくる、という歌だろう。
弘法大師は九岐大蛇に襲われるのを狩場大明神が救うという話がもとになっているらしいが、白と黒の2頭の犬じゃつまらないので、志功はオオカミの上でキツネが踊っている絵にしたのじゃないのだろうか?
ついでながら、吉井勇は「♪いの〜ち〜短し恋せよ乙女〜」で有名な「ゴンドラの唄」の作詞家でもある。
疎開していた富山のお寺の依頼で描いた襖絵の裏表だ。
志功らしいのはこれら包装紙だ。頼まれれば喜んで引き受けていたという。これらはミュージアムショップで中身が入ったもの(実物)が販売されていた。
展示された作品はもちろんテレビ番組に取り上げられたもの(これは撮影禁止)も実に愉快だった。まだご覧になってない方は是非ご覧ください。
会場を出る時、体の中をさわやかの風が通り抜けるような気分になった。
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会場には31名、そしてZoom参加者は57名。88名の参加でした。ありがとうございました。
事前の動作確認などでお互いヒヤヒヤ・ドキドキです。代表幹事のあいさつからスタート。
約2週間後の変化が一目でわかります。
そして現状です。変化(改善)がよくわかります。
次の事例報告です。
そして3番目はZoomによる発表です。
リアルの発表と比べて特段の不足はないなと思いました。音声はこちらの方が逆に明瞭でした。ありがとうございました。
パネルディスカッションですが、まずは串田さんの発表から。
この辺りの声が実際に活用した方からも聞こえてきた。
僕がこのパネルディスカッションの司会を担当したが、パネラーだけでなくフロアーからも発言していただいた。
最後は幹事の二人からも本日の感想をもらった。
下は稲川ドクターの素晴らしいサインだ。
次回は来年2024年5月25日(土)に開催を予定しています。
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エレベータにもポスターが!
画材はボールペンとサインペン。フリーハンドで仕上がっている。
下は(フリーハンドで)左右対称形になっている。
この作者が小学校に入ったころからの付き合いだ。高校で美術を学べる学校があり試験にデッサンがあるということで、中学3年生の彼にデッサンを最初に教えたのは僕で、これは生涯自慢になる話である。
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大棟梁なのだ!
この人なくては世界遺産の日光東照宮はないのだ。
ここには「延べ450万人余りの職人を監督した」とあるが、一日当たりだと約8000人を管理したわけだ。その中にはあの名人の「左甚五郎」もいたということだ。
改修と言うが、ほぼ建て直しに近いものだったようだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
甲良 宗廣(こうら むねひろ、天正2年(1574年) - 正保3年3月17日(1646年5月2日)は、寛永9年(1632年)芝増上寺台徳院霊廟、寛永13年(1636年)には秋元泰朝を総奉行とする日光東照宮「寛永の大造替」に宗広は子息宗次と共に一門を率い、また左甚五郎等を用いて務め、工事完成と共に宗広は四位の位と束帯を許され、子息(2代)宗次・孫(3代)宗賢も五位束帯を許された。
寛永16年(1639年)上野寛永寺五重塔造営を手がけた[1]。代表作の日光東照宮は色彩と彫物を豊富に用い、建築史上特筆すべき事蹟と言え、以後の神社建築に大きな影響を与えた。
僅か1年5か月という短時間に壮大な建造物を建て、そこには彩色豊かな彫り物が残されて実に素晴らしい。
比べるの変だが、1882年に着工したスペインのサグラダ・ファミリア - Wikipedia は、まだ完成していない。
もちろん、修復工事のおかげで僕らは当時をしのぶことができるわけだ。
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例えば一日中眺めていても飽きないことから「日暮らし門」と呼ばれた国宝の「陽明門」だが、この門の裏の4本の柱の彫刻だ。
上の柱が3本。1本だけパターンが逆になっている。
完成させると、あとは衰退し破滅するだけということで、あえて完成させなかったという。
上は有名な「眠り猫」。下はその真裏にある外で遊ぶ雀たち。あの左甚五郎の作だ。
そのココロは「猫がぐっすり寝ているので雀たちはノビノビと遊べるよ」ということだ。「そういう世の中を徳川家は約束するよ」といういわば所信表明みたいなものだったのかな?
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この時代は今の様な豪華な建物ではなかった。19年後(1636年)三代将軍の家光が祖父の家康を神とあがめたため、このような凄い東照宮に作り替えたというわけだ。
現在では鎮守神はその土地に住む神だと考えられることが多いが、元をたどれば、鎮守神は地主神を押さえ込み服従させるために新たに祀られた神のことである。(余談だが1889年に人口1000人足らずのさびれた漁村の佐世保村に海軍鎮守府が置かれ、それから急激に人が増え一気に佐世保市になった。)
ま、「軍神」というのもこのような発想だったのかな?
それはともかく、この三基の神輿のことだが、もちろん中央は家康。左が秀吉。ところで右は誰だろうか?
左は源頼朝である。秀吉は関ヶ原合戦で石田三成を打ち取り秀吉の後継者となったわけだから秀吉も神じゃなきゃおかしい。ではなぜ頼朝かというと、家康は源氏の出であることを公言していたからだろう。
この建物の壁だ。素晴らしい仕事だ!
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テレビのドラマは小さいころから見る習慣がなく大河ドラマも見なかったが、実は緒形拳が秀吉役をやった「太閤記」だけは、どうゆうわけか(両親が見ていたからか)だいたい見ていたので、信長(高橋幸治)や家康のことも教科書ではなく知ることになった。
信長;1534(天文3)年〜1582年 48歳
秀吉;1537(天文6)年〜1598年 61歳
家康;1541(天文11)年〜1616年 75歳
3人がともに生きていた時代は1541年から1582年の41年間だ。この時期に日本の近世の扉が開かれることになった。つまり戦乱の世の中から平和な時代へと移行したのだ。
「私が死んだら、まず、久能山に納め、神として祭るように。葬式は増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を立てよ。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧進せよ。関八州の鎮守となろう」というのが家康の遺言となっている。
関八州(かんはっしゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
この遺言に従い、二代将軍の秀忠は家康死去の翌年1617年日光に家康を移して社殿を完成させた。この時代は今の様な豪華な建物ではなかった。三代将軍の家光が、家康の事を神と崇め大変尊敬していたことから今の様な豪華な建物に改装させたという。
東照宮といえば「陽明門」。
この「陽明門」は徳川家3代目将軍徳川家光によって1636年に改築され、現在のような豪華絢爛な門になった。1日眺めていても飽きることがないことから「日暮らしの門」とも言われている。国宝に指定されている。
それはともかく僕が気になったのは家康の遺言の中の「神として祭るように」というところだ。本殿では二礼二拍一礼の説明もあった。同じ敷地にお寺もある。ここでも日本の宗教観が考えさせられる。
軍神としてまつられている神社は少なくない。乃木神社や東郷神社。長崎県では橘神社や廣瀬神社が有名だ。皆軍人で彼らは明治時代に神様になった。
僕は詳しくないが、仏様にはなれないが神様にはなれるという宗教観があったことを、あらためてここで知ることになった。
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そして本日は弘法山へ。メンバーはチェンジして、7.2? のハイキング!
実は例の「佐世保バカ人会」でした。
タクシーでこの蕎麦屋まで行くわけですが、僕は助手席でした。
後ろの3人のうち二人は佐世保弁丸出しで騒いでいました。信号で止まった時に僕は隣の運転手さんに「なんて喋っているかわかりますか?」と尋ねると「なんとなくはわかりますが・・・」ということで、日本は広いということを改めて感じた次第です。
「言葉が異なると文化が異なる」というよりは「文化が異なるから言葉も異なる」のだろうと僕は静かに深く(?)思考していました。
蕎麦は僕ら佐世保人にとっては異なる文化の食べ物なんで、みんな姿勢を正して真面目においしく頂きました。
そして最後はいつものようにカラオケですが、ここは社員食堂でカラオケをやっている感じで、清く明るく正しく楽しい歌会でした。
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ところで「もう結構です」と言うと、それ以上必要としない時に使う言葉でおなじみだが、「結構な眺め」「結構なお点前 (てまえ) 」「結構な御身分」など優れていて欠点がない場合にも使う。
また「お値段はいくらでも結構です」とか「サインで結構です」ということもあるが、これは今はやりの「大丈夫です」というのと同じかな〜?
ところが建築物の出来具合や意匠(デザイン)のことも「結構」というが、また「結構」は豪華なものや贅沢なものを意味したので、東照宮の豪華絢爛な建築美を讃えたものである。さらに「日光」と「結構」の語呂合わせにもなっている。
僕は1972年(なんと半世紀以上前だ)4月に就職したが、その年の10月に男体山(2486m)に登り、その後で東照宮を見物した。その時は彫り物の彩色はほとんど剥がれていたので、あまり印象には残っておらず「左甚五郎作」ということしか覚えていなかった。
実はこの建物は馬小屋です。ここに猿(ヒト)の一生が彫刻されているのです。
なぜ猿がいるかというと、猿が馬の病を治したという言い伝えが(たぶん)中国にあったからです。
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初めての「いろは坂」です。
中禅寺湖です。
華厳の滝だ!
ひなびた温泉。入浴者はみな挨拶していた。地元の方が愛好する温泉だ。
僕は久々の車中泊。
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学校で描いたものらしい。小学2年生だ。
芋堀が面白かったことがよくわかる。手袋の色も同じだ。
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今年から「モビリティショー」と変わり、本日から一般公開です。
Japan Mobility Show (japan-mobility-show.com)
空飛ぶ車です。
小さな電気自動車が数多く出展されています。
下は手作り感があふれるモデルです。
懐かしのミゼットも!
電動の椅子、つまり電動車椅子だ。
こんなモデルも・・・。
トヨタのコーナーは凄い!月面車の背景は月の世界の動画だ。これを眺めるだけでも価値のある展示会だと思った。
どのメーカーの(ブースではない)展示スペースは、国際福祉機器展に比べると数十倍以上の費用がかかっていることがよく分かった。
下は人気のぬいぐるみだ。
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最近よく聞く言葉です。
ラーメン屋のレジでは「会計は別々にしましょうか?」
すると「大丈夫です!」。
本屋さんでは「カバー掛けますか?」
すると「大丈夫です!」。
意味は「いや〜・必要ないっす」つまり「ノー・サンキュー」ということです。
以前、僕は(恋人に?)「コーヒーは?」と聞くと、(一瞬、間をおいて)「大丈夫です!」という言葉が返ってきた。
僕は静かに「OK!」と頷いて、コーヒーミルを引き、サイフォンのアルコールランプに火をつけたものだ。
写真はネットから借用
時代が変わると言葉も変わる。
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沢木耕太郎の「深夜特急」は愛読書のひとつだが、その後のバックパッカーのバイブルとなっている。深夜特急 - Wikipedia
彼は「かつてシルクロードがあったのならば、現代ならバスぐらい通っているだろう」と終点をロンドンとして路線バスなどの乗り合いバスだけを乗り継いで行くことにした。
ということだから、目的も手段も決まっていたので、これは「放浪」ではなく、間違いなく「旅」でしょうね。
放浪の天才画家・山下清の生誕100年の展覧会を先月鑑賞。放浪の実態も少しわかった。施設暮らしに飽き、外の世界を見たくて出かけていくというわけだから、とても真っ当な放浪だ。
放浪は定住する場所を持たずに各地をさすらうこと、あてもなくさまよい歩くこと。流離(さすらい)、流浪(るろう)、彷徨(ほうこう)とも。
小林旭の「さすらい」は1960(昭和35)年9月発表。「♪夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく…」は当時小学5年生だったが、そのころから「北帰行」とともに僕らの愛唱歌である。大人の気分を感じたものだ。
小林旭 さすらい 歌詞&動画視聴 - 歌ネット (uta-net.com)
「放浪」と言えば、阿佐田哲也の麻雀放浪記 - Wikipediaは小説もいいが、和田誠監督の同名の映画も素晴らしい!個人的には加賀まりこがとても良かった。
小椋佳の『彷徨』(さまよい)は1972年3月、3枚目のオリジナルアルバムである。(ところで、このジャケットの男性は誰だったのかな?)
あなたの後ろ姿にそっと別れをつげてみれば
あなたの髪のあたりにぽっと明かりがさしたよな
裏の木戸をあけて一人夜に出れば
灯りの消えた街角 足も重くなるけれど
僕の遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない
許してくれるだろうか 僕のわかいわがままを
「放浪」は「浮浪(ふろう)」と比較すると、その定義はより明確になる。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
「放浪」は定住地を持たず、各地を転々と回ること。
放浪は「住み家が定着しておらず」移っていく点が重要であり、例えば放牧しながら各地を転々とする遊牧民などは「流浪(放浪)の民」などと呼ばれる。
「浮浪」は住所不定で定職もなく、さまよい歩くこと。
住む場所が定まっておらず、生計を立てるための「定職もない」状態で、さまよい歩く行為。「浮浪」は現代でいうとホームレスになる(らしい)。
また、定住地や定職といった条件を特に含めずに単純にさまよい歩く行為は「徘徊」と定義(?)している。すると、小椋佳の家出する少年は「徘徊少年」だったのかな?
「放浪」は定住地を持たず、各地を転々と回ること。
古くは西行、そして芭蕉から井上井月、山頭火とつづく著名な俳人の生き方(「旅」をねぐらの放浪暮らし)の中に新しい歌を詠んできたのだ。
雄猫も「さすらい」ますね。放浪するのは男の専売特許? 雄がさすらうことでその一族が増えていくという側面もありますね。
読んだことはないが、「放浪記 林芙美子著」放浪記 - Wikipedia はテレビドラマにもなり有名だ。女性もまれだが放浪する。「流転」と呼ぶべきか?
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「そうだ!富士山がきれいかも?」ということで、山のリュックを点検して東名高速に乗った。
日差しはきついが、残念ながら富士山の手前は薄雲がかかっていた。このくらいの冠雪が富士山らしい。
ここで昼食。
秋は確実に迫ってきていました。
なんだか美味しそうですね〜。
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まず朝からでく工房が中心になって主催している「車椅子だけの展示会」へ。会場は工房のある昭島市役所の市民ホール。
開会前に弊社社長のあいさつ。
そして午後から始まる日本車椅子シーティング財団のセミナー会場をめざして日本橋へ急ぐ。
テーマは「どうすれば介護保険制度でシーティングを普及させることができるか」だ。
基調講演を財団理事でもある東畠弘子さん。
許可を頂いていますが「転載はしないように!」お願いします。
パネラーの皆さんの発表(4題)は、シーティングの普及に頭を悩ましている僕には、すべて刺激的だった。今後のアクションのヒントになった。
その後のパネルディスカッションも司会者の進行も旨く有意義なものだった。
Zoomには多くな方が参加され、ほとんどが終了時間まで退場されなかった。チャットでの質問や感想も多かった。
皆さま、ありがとうございました。
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KANABIあ・そ・び隊大展覧会 | art space kimura ASK? (asku.sakura.ne.jp)
母校・金沢美大の先輩・同輩・後輩による楽しい展覧会です。先輩や同輩はリタイヤをした後も新しい創作活動に励んでいるのが、とても刺激的でした。レベルが高い!
同級生の作品です。
下は先輩の作品。
印刷物(著書)やネットでは拝見していましたが、現物は初めてです。下は自作のカーブ定規。
地下には楽しげな部屋が用意されていました。
先輩や後輩と楽しくビールを頂きました。そうじゃなきゃ美大じゃないよね!
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見る・遊ぶ|あわしまマリンパーク (marinepark.jp)
これが渡し船。陸地(伊豆半島)から200メートルくらいしか離れてない(以前はロープウェイがあったそうだ)が、橋がないので離島だろう。大人は2000円払うとこの船に乗り「あわしまマリンパーク」へ入場できる。
イケスにイルカが飼育され、訓練されている。吊り下げられた輪をジャンプしてくぐり抜けたり、鼻でフラフープをやったり、海に投げ込まれた複数の輪を上手に鼻ですくい上げたりというわけで、大人が見ても十分に楽しめる。思わず大きな拍手が…。
比較的広いイケスなので、たぶん他の水族館よりは、のびのびと暮らしているように見えた。
ペンギンにも餌をあげることができる。餌代は皆500円。立派なアジだ。
二人はこのカニと身振り手振りで対話していた。しばらくするとカニも同じように手(?)を動かしているように見えた。
カエル館はわが国で最も多くの種類が集められているという。手づくり感あふれる水族館だ。
アシカの芸も面白かった。
見事にゴール。
これは(アシカショーと言っていたので)たぶんアシカ?(上と下の写真)
ところでアシカとアザラシの違いは?そしてオットセイなどとの違いは?
ネットで検索してみた。
海に生息する哺乳類のことを海獣といいイルカやラッコなども含まれる。
アザラシは「アザラシ科」で、アシカ・オットセイは「アシカ科」の動物(「アザラシ科」も「アシカ科」も「食肉目」)。アシカとオットセイは特徴がよく似ていて、アザラシはまったくの別物。
・陸上を寝そべったまま動くのが、アザラシ
・耳たぶがあるのが、アシカ・オタリア・オットセイ・トド
・耳たぶの長さ:オタリア≒トド<アシカ<オットセイ
・体の大きさ:オットセイ<アシカ<オタリア<トド
・キバがあるのが、セイウチ
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芋堀隊員に隊長のあいさつ。二人は従兄妹だ。
広い庭は畑になっている。
隊長はこの日、夜明け前からタイ釣りに出かけた。
サバも釣れ、しめ鯖に。実においしかった。
豪華な食卓だ。子どもはどうかなと思っていたが、大喜びで(特にタイのアラ煮が気に入り)ご飯を5杯もお代わりしていた。
とれたて芋の天ぷら
食後、絵を描き始めた。地面には芋や鍬やスコップ、少し小雨だったので、それも描いてある。
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上は僕が以前つくったドングリ人形(孫娘は映像でしか知らない)をつくりたいと前から言っていたので、まずは近くの樫の木山自然公園にドングリを拾いに行く。
わが家に帰るなり、さっそく制作開始。
僕が飲んだワインの栓が胴体になる。
描いた顔と胴体の組み合わせも一発で決める。
見事なマッチングに爺さんは拍手! ぱちパチパチ〜!!
あっという間に顔ができてしまう。爺さんは胴体に接着するのに大童。
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「佐世保から出てきたバカの集い」と揶揄する人もいるし、「確かにね」と思われる奴もいるが、実は「空手バカ」や「釣りバカ」と同じで、我々の故郷・佐世保と佐世保弁をバカに愛する仲間たちの集いである。
公用語は佐世保弁。集う仲間と「公用語」で話すと実に気分がよい。頭の中で考えたこと(つまり佐世保弁で考えているわけだ)が、そのまま言葉にでる。皆、忘れたかもしれないが、上京して言葉で不自由してきた仲間なのだ。
もともと佐世保弁は、江戸っ子の言葉よりも早いので、みな大騒ぎになる。知らない人は喧嘩しているのかと間違うらしい。ま、それもあって一次会は基本的には個室(的)になる。
長崎大学の学長を2期6年間、この9月末まで務めた河野茂クン(後左)が上京するというので、佐世保バカ人会を新宿で開催。「河野クンを囲む佐世保バカ人会」と銘打っても、主賓も会費を払うのだ。逆に皆は長崎のお土産までもらった。
学長の任期(それまでは決まってなかったそうだ)も自分で提案し決めた。彼はもともと呼吸器と感染症が専門の医師だ。
2020年5月、コロナに罹患した乗組員が乗る客船が長崎港に停泊したことがあったが、それを長崎大学が中心になり見事に解決したことがあり、国会で証言したこともあった。最初の横浜港の「ダイヤモンドプリンセス号」の大騒ぎの中、長崎大学からも専門の医師を派遣した経験があり、それを生かした結果である。
詳しくは「死者ゼロの真相」をご覧ください。
死者ゼロの真相 長崎クルーズ船新型コロナ災害との激闘 | 河野 茂, 河野 茂, 崎長 ライト |本 | 通販 | Amazon
また、ウクライナから留学生を長崎大学に受け入れるだけでなく、彼・彼女らの滞在費をクラウドファンディングで集めたこともあった。
二次会は当然「カラオケ」だ。個室でマイクを持って各自好きなだけ佐世保弁で語ることができる。
彼は歌も得意だ。 (595) 白い恋人たち 河野 茂 - YouTube
卒業以来(55年ぶり)初めての再会という人もいた。同世代の仲間の訃報を聞くことが増える昨今だが、こうやってまた「新しい古い仲間」が増えていくのだ。人生は素晴らしい!
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これは何でしょうか?
もちろん「男性用の小便器に大便をするな!」という警告というのは、誰もが「そりゃそうだ。ダメだよ!」とわかります。しかし、大便をそこに残してしまった方の立場に立ってみると、どんな情景が思い浮かびますか?
我慢できず駆け込んだ男子用トイレ、個室はすべて使用中。
さて、あなたならどうしますか?
実は40年以上前、(当時は国電)中野駅の構内便所で、僕は現物を見てしまったのです。もちろん「なんで?」と思いました。
後始末をする余裕はなかったのだろうと今では僕は思います。
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僕らは出展していませんが、工房の仲間が「福祉機器開発最前線」(東1ホール)に展示しています。というか、招待されて展示しています。
代表の浅見さん。
これまでも試させてもらっていましたが、さらに改良が加えられています。
車椅子のシートユニットが自由自在に動きます。
体幹のヒネリや引き延ばしもできます
詳しくは、(株)コボリンのhpをご覧ください。
5つの姿勢変換機能つき電動車いす | 株式会社コボリン (koborin.com)
すぐ隣には、僕も理事をやっている「共用品推進機構」の展示。これも主催者からの依頼。
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いつもの散歩コースにも確かに秋が来ていた。
いつもの駄句ですが、汗ダクは軽減?
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会期は2024年1月14日(11:00〜18:00 月は休館日)までと大変長いが、それだけに大掛かりな(?)仕掛けが施された作品が展示されている。おそらく驚きの連続だと思う。
入場料は一般500円だが、高校生以下は無料、そしてなんと65歳以上も無料とうれしい。ただし年齢を証明できるものが必要。
ほとんどが撮影可能。
「無響室」はひとりしか体験できないので、入場したらすぐに予約をするといい。
椅子に座ると部屋は真っ暗になり、不思議(奇妙?)な音が360度方向から大きくなったり小さくなったりして、体にまとわり付いてくる。不思議な感覚を体験することになる。
東大・大学院の展示室は、作品のボリュームもさることながら不思議で美しいものばかりだ。
一枚の紙を折って作ったウサギ。下の右側がその型紙だ。
折るプロセスが高速動画で見ることができる。
天井には拡大モデルが…。
ど肝を抜かれたのが、この作品。これだけは撮影禁止だ。
ICC | 《ジャグラー》 - グレゴリー・バーサミアン (1997) (ntticc.or.jp)
毎時30分から10分間だけ動いているのを(僕が言うのもヘンだが)まず見ていただきたい。その後で静止した状態を確認してください。驚き!驚き!です。
子連れでも十分楽しめます。
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2件目の店で山靴を見ていたら「何かわからないことがあれば、お手伝いします」と言うので、いくつか問い合わせると「こんなの如何でしょうか?」と試させてもらった。高価だったが(最後の山靴と思って)とても良かったので購入。
それで、本日は「試し登り」と相成った。
ここが下社で「1丁目」で、ここから急な階段を登り、山頂が「28丁目」である。
赤土でも滑りが止まる。
石ころの上も快適だ。
28丁目が山頂で上社である。
帰ってからも指先(爪も)が全く痛くないということで、大喜び。この靴が僕の最後の山靴になるのだろう。
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Amazon.co.jp: 放浪する心の風景 73歳からの墨彩画集 : 永尾 松夫: 日本図書
表紙も見覚えのある槍ヶ岳からの景色だ。1962年11月(頂上に登る鉄梯子もない時代のこと)「真冬よりも雪が付いている」と言われ、鎖もすべて雪の中、一人で登頂(第2回目の驚き)槍のてっぺんから撮影した写真をもとに2013年3月に描かれたものだ。75歳(?)の時に描かれた絵だというのにも、別の意味で(第3回目)驚いてしまった。
著者が73歳から始めた墨彩画である。(正直に言いますが、74歳の僕は今現在は絵を描く気がしないのです。美大をめざす頃は絵を描くことが大好きで、食事も忘れるくらいだったのが、どこに行ったのだろう?)
10頁には先日僕が登ったばかりの北穂高岳からの見る「暮れなずむ槍ヶ岳」だ。著者が1958年8月(二十歳のころ)に撮影した写真をもとに2014年3月(76歳?)に水墨画として描いたものだ。
同じ位置で撮影しているはずだが、カメラのレンズの違いなんだろうかそれとも雲の状態が異なるためか、僕の方が撮影ポイントが低く見える。
生年月日が記載されていないが、本文から推測すると1936年生まれでしょう。
学生時代から山岳部で鳴らした方のようです。途中仕事の関係ですこしブランクがあったようですが、ずっと登山は続けられていた。後半は各地を旅されて、その写真をもとにした絵も掲載されている。
北欧のバルト海クルーズ(2001年)は、僕も何度か利用したバイキングラインのフェリーボートも克明に描かれている。
さてここからが、さらに驚いた(第4回目)話だ。著者は66歳の時、脳梗塞で倒れる。山はあきらめかけるが、その後、山行がリハビリとなり、見事に復活している。その気力に完全に脱帽だ。
そして最後に驚くのは、この本を送ってくれた友人の母親が利用しているデイサービスにこの著者・永尾松夫さん(87歳?)も通っているということだ。合計5回も驚いたという話だ。寡黙な方だそうです。
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ところで、さんまい【三昧】とは? 以下ネットで確認。
[名]《(梵)samādhiの音写。三摩提・三摩地とも音写。定・正定・等持などと訳す》
1 仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえ雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。
2 「三昧場 (さんまいば) 」の略。
[接尾]《「ざんまい」の形で多く用いられる》名詞または形容動詞の語幹に付く。
1 ともすればその傾向になるという意を表す。「刃物―に及ぶ」
3 心のままにするという意を表す。「ぜいたく―な生活」
さて本題です。生きている天才と久しぶりお会いすることができました。
案内に「ピタゴラスの正方形」とあったので、僕はこれを見て、すぐにわかった。
「左右の正方形の面積を合計すると真ん中の正方形になる」というピタゴラスの定理だ。そしてすぐにわかったのは「左右の色を混ぜると中央の正方形の色になる」じゃないのか?
あとで天才・戸村浩さん(初めはその昔、柳事務所でお会いした)に確認したら「その通り!」ということだった。
凡才の僕は、これがわからなかった。「隠れた三角形」とおっしゃるが、「わからない」と正直にお伝えした。
下の模型を見せて頂いた。
こうやると三角形が隠れてしまうのだ。
「僕は天才と会った!」 英語だと? 最終日には会場にいらっしゃるようだ。
次は美大の工業デザイン専攻の一年先輩の中川さんの展覧会だ。
おかしかったのは美大の学生時代の作品が最初に展示してあったことだ。僕もまったく同じ課題に取り組んだので自分の作品と見間違うようだった。
そして最後が銀座の松屋デパートの8階だ。
多くの人で賑わっていた。
恩師の柳先生の事務所で長く頑張っていた美大の後輩の吉田さん。
これが今回の自信作!
衣類や食品も一緒に展示されているのが、それが人気の秘密かな?
古時計の文字盤を生かし、現在の電池で動く時計に仕立て直したのには、いたく感動した ❣
ところで、この三つの展覧会に共通しているのは、天才・柳宗理先生だ!
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大変な人気で展示会場に入るまでに1時間以上かかった。
会場で撮影できるのは限られていた。
上はバナー。長崎のグラバー邸。
下は壁面に複製の自画像(原画は貼り絵)。これも撮影可である。
下はミュージアムショップだ。
貼り絵が圧倒的に多いが、これは数少ない油絵(印刷)だ。陶器に絵付けした作品も素晴らしい!
下はペン画(マジックインキ)水彩の彩色(印刷)。
ミュージアムショップのレジ待ちも大行列。
階上は入場待ち。下はミュージアムショップのレジ待ちの行列だ。
今回初めて実物を拝見したが、その素晴らしさに新鮮に驚いた。また日記をはじめ多くの文書が残されていて、彼の人柄がよく分かった。
特に彼の代名詞でもある「放浪」だが、施設の生活に飽き、旺盛な好奇心に引っ張られ素敵な場所を見つけるということと同時に、戦争に駆り出されるのが怖くて逃げまわったということがよく分かった。
彼にとっては「放浪」は趣味というかクセみたいなもので、病気の一種かとも自覚していたようだが、おそらく施設の職員からそのように指摘されていたのだろう。
詳しくは 山下清 - Wikipedia
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別途日程を定めて、まずは材料の寸法を測るとことからスタート。
自分の椅子をつくりたいというので体の寸法を計測。小学5年生で身長152?。
ラフな絵を描きながら設計を始める。
どこにどのような部材を使うか確定する。
木取りは電動丸鋸を使うので危ないから、少し離れて見ておくようにと注意するが・・・。
だんだん電気ドライバーの使い方が上手になっていく。
鉋で面取り。
手鋸はやらせてみた。
組み立て完了
塗装
赤い模様は次回の仕事だ。
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そもそもは(最初にも書きましたが)この本を読んで3000メートルを超えるこんな高いところ(3100m)に山小屋を建てようと思い、それを1947(昭和22)年(僕が生まれる2年前)実現した人がいたことに大変驚き、そして感動したことが、北穂高岳に登ろうと思った直接のきっかけでした。
もちろんヘリなんてありません。すべて人力で成し遂げたのです。圧巻は5.6m・130?の梁材をほぼ一人で担ぎ上げたということです。
下の写真はネットで拝借したものです。何度か建て直されていますが、初代の山小屋もこの位置です。奥に見えるのが奥穂高岳。
上の写真を拡大。小屋のすぐ上、楕円形に見えるところが頂上です。小屋の右手前が深く切り落ちている滝谷。ロッククライマーのメッカだ。
下の写真の中央に穂高岳山荘が見える。
以前奥穂高岳に登った時、天気がよかったので、この小屋の前の岩の上でガスコンロにお湯を沸かして、昼食をとったことを思い出した。
下山後にこの本のことを知ったが、今田重太郎さん(1898年〜1993年)がこの場所(2996m)に山小屋を建てたのが、1925(大正14)年のことで27歳だ。北穂高岳に山小屋を建てた小山義治さんは5歳。ちょうど親子のような年齢差だ。ついでながら、小山さんと僕の父はほぼ同年。ということは、今田重太郎さんは僕からすれば祖父に当たる世代だ。
お互いの本にそれぞれが登場する。特に遭難者の救助などでも協力しあい信頼関係があったことがよくわかった。
この時期は高山植物が咲き誇っていました。上はミヤマトリカブトでしょうか?
行きも帰りも立ち寄り一息入れた涸沢小屋。
涸沢小屋のテラスの手作りのポスターに引き寄せられ、昼食代わりに頂き、バスの時刻に間に合うようにと上高地へ急いだ。看板に偽りはありませんでした。
地上ではヘリコプターを見下ろすことはないが、ここでは下からヘリが上がってくる。涸沢小屋のデッキから下の涸沢ヒュッテに荷物を乗せおろししているのが一望できる。
ま、これでおしまいにしましょう。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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