パンテーラの初代モデルが今も活躍しています。
僕らが1994年5月に輸入し販売したモノです。乗り手は2代目ですが、23年以上使われています。
途中パーツの交換はありましたが、今もずっと使われ続けています。
このバックサポートは当時のそのままです!
光野有次の気分はバリアフリー今や新大陸発見はできません。
また新生物や新星の発見も容易ではない。 しかし身の回りで起こる小さな「オヤ?」は発見できるかも? |
パンテーラの初代モデルが今も活躍しています。
僕らが1994年5月に輸入し販売したモノです。乗り手は2代目ですが、23年以上使われています。
途中パーツの交換はありましたが、今もずっと使われ続けています。
このバックサポートは当時のそのままです!
工房のトイレは、メインの建物の外にありますが、今年もまた、ド根性笹が、凄い〜!
さて、どこまで大きくなれるのやら。
長らくお待たせしましたが、やっと、やっとレポの最大モデルであるレポ・ネクストの販売の見込みが立ち、そろそろそのデモ機の受付が始まります。
詳細は「でく工房」のホームページに(たぶん)掲載します。
今年も昨日、東京衛生学園専門学校の理学療法士の養成コースに非常勤講師として出向いた。もう10年以上なると思うが、毎年2コマ担当している。
学生たちは国家資格としての理学療法士を取得するために、この学校で学んでいる。目標が明確なのでモチベーションも高い。僕はこの学校で車椅子やシーティングのことを伝えるのが大好きだ。
理学療法士のコースは2クラスあるが、昨日は学校に無理を言って、午前中に連続2コマ、そして午後からも別のクラスで同じく2コマ、同じ内容の講義をおこなった。僕は合計6時間、途中に簡単な実技はあるが、元気(?)に話し続けた。
いつものことだが、最初に学生と3つの約束をする。
出席はとるが、一回だけしかお会いしないので、名前や顔を覚えることはできないし、まして皆さんが何を考えているか、何を学んだかなどわからないので、例えば、こちらから「〇〇について知っていますか?知っている人」と聞いたら、知っていれば素直に挙手していただきたい。しかし、だからといって、すぐに挙手した人に説明は求めない。次に必ず「説明できる人」と問いかけるので、再度挙手していただきたい。そこで、こたえてもらえばいい、というわけだ。
次に、「お隣の方と確認してみて!」という場面がある。限られた時間なので、その時は十分に話して、どちらかに答えていただくので、予定していてください。
そして最後は、僕からの指示がない時にはお隣さんとは勝手にしゃべらない。挙手して僕に尋ねてください。という3点だ。
学生たちは、毎年この約束を守ってくれるので気持ちがよい。こんな進め方なので居眠りする暇はない。僕は非常によく勤める講師なのだ。
2年生だが、専門用語についての理解度は高い。やはり実技に入ると活気が出る。なんといっても、この3人一組の骨盤サポートの実技は大いに盛り上がる。
現在の高齢者の置かれている立場を語ると、神妙な顔で受け止めてくれるこの若者たちに僕は多くの期待を寄せているのだ。
関東は最近急に寒くなり、しかもこのところ雨天が続いていました。下の写真は2日前、ヒキガエルも登場!
本日は久しぶりの秋晴れ。
工房の裏庭、といっても大家さんの庭なんだが、2年おきに柿の木がたわわに実を付ける。
大家さんに断って、木に登り、たくさん収穫した。今年の秋は、忙しなく去っていくのだろうか?
本日はお昼前に集合して東京湾を堪能しました。
薬剤師会で表彰されたというので、高校の同期の仲間が集まった。
我々の人生航路もいよいよ終盤戦だが、こうやって一緒に遊べるというのは素晴らしい!
およそ1名、サマになっている人がいますね。
昨夜からの雨で心配しましたが、開催時間には見事に雨がやみ、大勢の方が来てくださいました。
工房の若手が今回の仕切り役で朝礼。
工房の社長のあいさつ。
弊社の2世が受付を担当。おかげ(?)でアンケートの回収率は100%近かったそうだ。
昨年に引き続き福祉車両の展示も
そこでアンケートに答えると、この本格的なミニカーがもらえた。
市民ホールは熱気があふれ、管理の方が何度かエアコンの温度を下げてくれた。
今年もSTの先生たちが来場の子どもたちを盛り上げてくれた。
レポ・シリーズにあたらしく仲間入りした「レポ・ネクスト」も評判だった。
今年もドラえもんのロボット登場。
無事終了。出展者とスタッフの記念撮影。ご苦労様でした!
各社の展示品が無事に車に乗り、残ったのが工房から運んだ展示品。車3台に乗せて帰った。
明日(10月9日・土曜日)10:00〜17:00 恒例の「こどものための福祉機器展」を開催します。雨という予報ですが、はじまる時間は小雨で、午前中に上がるようです。お誘いあわせでお出かけください。
今回は昭島市が後援してくれましたので、市役所の1階にある市民ホールで開催します。
これは、ハガキニュースです。新開発の製品も展示します。
詳しくは こちら から「出展機種名一覧」をクリックしてください。
筑波山から下山して、次の目的地に向かう。
予定時間より1時間ほど遅れたが、なんとか入場できた。
そのあまりの大きさに孫も同行の大人たちも皆驚く。
下から見上げてみた。胸のところに縦長の窓が3つある。
入場門(?)が、はるか下に見える。エレベーターでここまで登ることができる。ここは地面から85mの高さだそうだ。
これは、本物の認定証。
自由の女神も大きいと思ったが、スケールが違う。奈良の大仏なら、手のひらに乗る大きさだ。
地面から頭の上の上までは120m。シン・ゴジラの身長は118.5mだったので、ほぼ同じ。ちなみに最初のゴジラは50m。
実物は手前の頭部の1000倍の容積だとか。
これが髪の毛(?)の一つの原寸大。人を横に立たせないと大きさがわからないですね。
ま、「とにかくでかいぞ!」ということを誇示しているようだ。
3人の孫のうち男はふたり。その二人を連れて筑波山へ。
左の子は、これが山デビュウ。右側は昨年一緒に御岳山に出掛けたが、見かけによらぬ健脚。
筑波山は二つの頂を持つ山で、わずか6メートルだが高いほうが女体山。海抜877mだ。その山頂のすぐ近くまでロープウェイで登れる。男体山も尾根道を通って30分ほど。その途中の茶屋でうどんを食べた。
少し無理のあるこじつけだが、とても旨かった。
男体山から女体山を見る。
男体山の登り口でもある御幸ヶ原。この写真だと、奥が女体山への登山道。ここはケーブルカーの山頂駅になっている。ここで懐かしいガマの油売りをやっていた。
ネットで検索してみた。暇な方はどうぞ!
四六のガマのいわれは忘れていたが、鏡のシーンは完璧に覚えていた。
「陣中膏ガマの油売り」の口上
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ガマの油売りの口上は、浅草観音境内奥山で居合抜きの辻(つじ)売り芸で知られた長井(永井)兵助の口上を、同じく同所で独楽廻(こままわ)しの曲芸をやっていた松井源水が受け継いだとされる。16代源水の弟子という明智(あけち)三郎が伝える口上は、古典落語にみられるそれと大差ない(以下括弧(かっこ)内の言い換え、挿入は落語の文句)。
「サァサァ、お立ち会い、ご用とお急ぎでないかたはゆっくりとお聞きなさい。鐘一つ売れぬ日もなし都かな、遠出山越し笠(かさ)の内、物のあや色(文色(あいろ))と利方(りかた)(道理(りかた))がわからぬ。山寺の鐘が陰々(ゴーン)と鳴るといえども、童子一人きたり(きたって)鐘に撞木(しゅもく)を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るか(鳴るやら)、とんとその音色がわからぬ(道理)。
だがしかし(だが)お立ち会い、手前持ち出(いだ)したるこの棗(なつめ)、この中には一寸八分唐子機関(からこぜんまい)の人形、数多(あまた)日本に細工人もあるといえども、京都にて(には)紫随(しずい)、大阪表(おもて)には(にては)竹田(ちくでん)縫之助、近江(おうみ)の大掾(だいじょう)藤原(の)朝臣(あそん)、手前持ち出したるは近江の津守(つもり)細工、咽喉(のど)には(ハイ)八枚の羽車を仕掛け、背中には十二枚の枢(くるる)(鞐(こはぜ))を仕掛け、大道へ(に棗を)据えおくときは(には)、天の光に地の湿りを受け(て)、陰陽合体いたせば(し)、棗の蓋(ふた)をパッととり(とるときは)、ツカツカ進むが虎(とら)の小走り虎歩き、雀(すずめ)の駒(こま)どり(となり)、駒返し、孔雀(くじゃく)雷鳥の舞い、人形の芸当は(芸道)十二通り(ある)。
だァがお立ち会い、お放(ほう)り(抛(ほう)り)銭(せん)(と)投げ銭はおよしなさい。大道にて(に)未熟なる(な)渡世(とせい)をいたしても、はばかりながら天下の町人、(いまのお人のように)放り(抛り)銭や投げ銭はもらわず(に)、何稼業(かぎょう)(業(なりわい))に(と)するやという(に、多年業というは蟇(ひき)せんそう〈注―蝉噪・仙草〉四六のガマの膏(あぶら)だ)。
だがしかしお立ち会い、手前持ち出したるは四季蟾酥(せんそ)は四六のガマの油、いまのお人のように、そういうガマは俺(おれ)の縁の下や流しの下にたくさんいるという(おかたがあるが)、それはお玉蛙(がえる)ひき蛙というて(いって)薬力や効能の足(た)しにはならない。手前持ち出したるは(手前のは)四六のガマ、四六、五六はどこでわかる、前(足)が四本で後ろ足のつめ(後ろ足)が六本、だからこれを名ぞらえて(名づけて)四六のガマという。
このガマの住む(住める)処(ところ)は、京都よりはるかかなた(これよりはるゥか北にあたって)伊吹山の麓(ふもと)において(筑波(つくば)山の麓で)、車前(おんばこ)(草)という露草を食(くら)って棲息(せいそく)なし(露草を食う)。
このガマの油をとるときは(には)、四方へ(には)鏡を立て、下に(は)金網を敷き(はって)、その中へガマを追い込む。ガマは己の姿が鏡に写る(ので)、己の姿を見て己と驚き、タラーリタラーリ(タラリタラァリ)と油汗を垂らす(流す)、その油汗をば(それを)下の金網より抜いて(にて吸い)とり、柳の小枝をもって三七、二十一日の間、トローリトローリ(トロリトロリ)と焚(た)き(煮)詰めたるが(たのが)このガマの油だ」。
(以下、おなじみの効能口上と紙切りのしぐさのあと、刀での実験の見せ場となるが、以下は落語の文句で掲げる)
「赤いは辰砂(しんしゃ)〈注―天然の赤色硫化水銀〉にヤシの油、テレメンテイカ〈注―テレビン油をとる生松脂(まつやに)〉、マンテイカ〈注―豚脂。ともにポルトガル語の訛(なまり)語で、膏薬(こうやく)に使った〉、効能は出痔(じ)、疣(いぼ)痔、横根、雁瘡(がんそう)、楊梅瘡(ようばいそう)〈注―性病〉、金創(きんそう)〈注―刀傷〉には切創(きりきず)、いつもは一貝十二文だが、今日は小貝〈注―昔の膏薬は貝殻を容器とした〉を添えて二貝で十二文。ガマの膏薬の効能はそればかりかというに、まだある、切れ物の切れ味を止める。
手前持ち出したるは、鈍刀なりといえども、本(もと)が切れて先が切れない、中刃(ちかば)が切れないというようなものではない。お目の前でいま白紙を細かに刻んでご覧に入れる。一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十と二枚、三十二枚が六十四枚。
春は三月落花の形、比良(ひら)の暮雪は雪降りの形。このくらい切れる刀でも、差裏差表(さしうらさしおもて)へ、このガマの油を塗るときは、白紙一枚容易に切れない、引いて切れない、叩(たた)いて切れない、拭(ふ)き取るときにはどうかというに、鉄の一寸板でも真っ二つ、ちょっと触ってもこのくらい切れる。だがお立ち会い、このくらいの傷はなんのぞうさもない。ガマの膏をちょっとつければ痛みが去って、血がぴたりと止まる、なんとお立ち会い」。
室町(むろまち)京之介の紹介する「正調伊吹山の坂野のガマの油」の口上も、上記の口上を簡易化し現代風にしたものである。関東の口上では「軍中膏ガマの油」といって、武田信玄を持ち出したりしているものもある。[宗田 一]